最初は農耕用役牛だったが横浜で名声を博す

置賜地方(山形県南部三市五町)で牛の飼育が、1681年(天和元年)に、米沢藩主が置賜地域南部地方(現:岩手県)牛を導入し農耕・運搬・採肥を目的に飼育奨励したのが始まりです。置賜地方は、明治以前から牛の飼育技術を持っていたのです。

実際、食肉としたのが、明治元年10月30日長手村(現:上郷地区)の庄助という人が官軍に2頭献上して医師や負傷兵に調理して食べさせていた。また、藩政末期から明治の初期にかけて「牛のセリ市」が公開で行われていて、お祭りや屋台が出てにぎわっていた。このように、官軍に献上できるほどの「米沢牛」だったのです。

そして市場が開かれていたことから、地元の人は「米沢牛」を明治以前から食べていました。「米沢牛」が広く知られたのは、明治8年米沢県学校(現:米沢興譲館高等学校)に赴任してきた英国人洋学教師「チャールス・ヘンリー・ダラス氏」教師任期を終え横浜に戻るため、お土産に持ち帰り英国人に食べさせたら、あまりの食味の良さに大好評だったのです。

明治中頃には、西置賜郡添川村(現:飯豊町添川)の佐藤吉之助という人が横浜の問屋と特約し販売したのです。それから、大好評になり「米沢牛」が世間に広く知られたのです。さらに、奥羽本線の開通により「牛」が米沢駅から貨車積みされて、牛肉発祥の横浜に大量出荷し「米沢牛」という銘柄を確実なものにしました。

そんな米沢牛も通販で簡単に購入できる時代になりました。